Noblesse Oblige  ~ノブレス・オブリージュ~

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

客観性の落とし穴 村上靖彦

客観性の落とし穴 (ちくまプリマー新書)
客観性の落とし穴 (ちくまプリマー新書)
筑摩書房
Digital Ebook Purchas

新聞の下欄の「大好評」的な宣伝を見て図書館でも予約者が少なかったので借りてみた


本書は、
p7 はじめに

大学一、二年生に向けた大人数の授業では私が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材として用いることが多い。

そうしたとき、学生から次のような質問を受けることがある。


「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」


私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠付けが無い。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思う事がある。


「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされているが、客観的なデーターでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。

と言う背景から書かれたものだが、
正直私が「題名から受ける印象」と「私が期待する内容」と違っていた
どちらかと言えば「人と人との付き合い方」について書かれている気がした


p171

本書では客観性と数値を盲信することに警鐘を鳴らした。顔の見えないデータや制度からではなく、一人ひとりの経験と語りから出発する思考方法を提案した。この思考は社会的な困難の中にいる人、病や差別に苦しむ人の声を尊重する社会を志向することにつながる。



先日の「私のN坊当て逃げ事件(勝手に命名)」を例にとれば


「客観的」に考えれば「この程度の傷でわざわざ警察を呼ぶほどではない、と思っている」のですが「直してもらったばかり」と言う「私情」から呼びました
ですから警察が到着したときに、開口一番、
「この程度の傷で警察を呼ぶのはどうかと思いましたが、1月に直したばかりなので呼びました。すみません」と言いました
だから私の心情をくみ取ってくれた警察官が「僕も買ったその年に3回当てられました」と
それに共感・呼応した言葉をかけてくれました
多分、これが著者の言うところの「客観的データによると警察を呼ばない事案である」が
「傷つけられて悔しい」と言う「数値にならない感情」が生じた、と言うところでしょうか


もしこれが、同じことを私が最初に言ったとして警察官が
「本当に。この程度の傷で警察を呼ぶなんて!!僕ら市民からしょっちゅう『税金泥棒』って言われているんですよ!!!それをこのような軽微なことで呼びつけるあなた自身が『税金泥棒』な事わかってます????」って言われたら「呼ぶの、悪いな」と思っているのにその言葉に傷つきさらには「まあ、防カメ見てきますわ」と言い残して去っていったあと、一人残された私の気持ちとしてもう悲しくて情けなくて帰りたくなると思います
果ては「このスーパーでの事故ではないですよ!!!どこで当てられたか見当が付きませんか?つかないんですか!!それだと、書類書けませんけどいいんですかっ!!!」とか
追い打ちかけられた日にゃ… (ノД`)・゜・。


まあ、結局こういう事ですよね


その人の根底にある気持ちをいかにして引き出すか
そのアプローチ次第でこれほどまで結果が変わってくる
それが「人と人」との付き合い方の大前提
紋切型で「効率的」にしてしまうと「潜在的」なものを引き出せずに終わってしまう
その一方で一人の人に割く時間をいかにねん出できるかという問題も生じてくるのですが


この本の評価を上げるには「題名を変える」ことを提案します!