読書日記ときどき愚痴日記

主に読書感想。
かなり独断と偏見更に毒に満ち満ちた狭い世界を
自己満足で満喫しています。

大人には向かないと思った公文

公文も後残すところ2回となりました。
やっていてつくづく思ったのは「融通が利かない」学習法だな、と。
例えば朝の挨拶は「おはようございます」です、と例文に載ったら最後
どんな関係であっても「おはようございます」ではないと「×」がくる、
と思って頂けたらわかりやすいかと。
実際、生活をしていたら朝の挨拶が「おはようございます」だけではないという
ことぐらいわかっているのに(「言語」だから特に)
「おはよう」とフレンドリーに言うことや
「おは~~」とくだけたり
「おっす!」とかなり人を選ぶ挨拶もある。笑
よって、これが「会話」なら「〇」だと思うのだけれど、
文法重視ゆえかこれがプリントなら全部「×」がくるわけで…涙
大人になるにつれて余計な知識も増える反面、
人の関係を潤滑にするためにその人に合せた雰囲気で対応するのも
「知恵」だと思う。


英語で言えば「can」と「be able to」なんて日本人にとっては
「どっちでもいい」感覚だと思いませんか?
時制が関わってきた時にやっと「be able to」じゃないとまずいな、ぐらいで。
「before」が文頭に来ようが文中に来ようがよっぽどのことが無い限り
問題ないと思う、と大人の感覚で来てしまった状態で
「after」の後ろと言うか前置詞の後ろは「動名詞」でOK!と言う知識が
インプットされている状態で
「(あなたが)夕食を食べた後で、あなたは…」と言う
例題で
after eating dinner と書いたら「△」で「?」と悩んでいたら
(あなたが)とわざわざ書いてあるので、回答書は
after you ate  dinner   となっている」とのこと。



正直、勘弁してくれよ…って思ったのは言うまでも無く。
子どもはA1から順に追ってやるので「公文のやり方」を嫌でも
身に付けて「問題が求めているであろう、答え方」に順応できるのだと思う。
けど、これって本当に「応用」が効くの?と以前も疑問を呈しましたが
やればやるほど公文の学習法にイラつきます。笑
やっていて「さてこれは一体どの答え方をしないと満足していただけないのか?」と
解く以上に自分の知識との不一致に気を遣います。
「プリントに一回出てきた書き方が正解」と言う考え方がどうも受け入れがたい。
(先に書いた「can」と「be able to」とかね)



そうするとプリントの表が終わって裏に行ったら「確認」の為に、
再度表を見るという作業が増えてしまう…←これはすべきこと(=学習の狙い)なんでしょうか????????・



この学習法って「どうしてこれじゃだめなの?」という疑問を子供が持っても
「いいから、文句を言わずに丸覚えしなさい」とむりやり憶えさせるのとかわらない
気がして、本来の「学習」とはかけ離れている気がする。
むしろ「答えにこれもあるし、これもあるね。よく気が付いたね」って
誉めるのが筋だと思うのだが。(別にオバハンを誉めろとは言わないが)
これって日本の教育の弊害だと思う。
「弱肉強食」を「焼肉定食」と書いて先生が「×」にするか「△」もしくは
「〇」にするところで先生の度量がわかる。
問題の意図するところからは「×」であっても、生徒にきちんと
「こう書いてほしい」と説明するなり親に「×にしましたが…」と
手紙を付けるなりそんな対応一つで子供の今後って変わる気がする。
「忙しいの!!!!!!!
いちいちそんな不正解につきあってらんないのっ!」
って声がどこからか聞こえてきますけどね。
「なぜ?」に答えて個性を伸ばすのが先生だったはずが、
その先生そのものが個性を潰している根源の様にすら思えるんですけどね。毒
むしろ、こどもが「なぜ?」といちいち引っかかる子であれば
もう公立と言うか画一的な学校に通わせずもっと自由に「勉強、研究」できる
環境においた方がいいと思う。
雅子様の「適応障害」も今まで自分で考えて、自分の意見を言うのが
当たり前の世界にいたからこそ「自分らしさがあった」のに、
それを宮内庁に抑え込まれてしまってどうしようも無くなった
=どう振る舞えば良いのかもうわからなくなった
 からこその発病だと私は思っている。
(好きなように「外交」させてあげたら、病気は治ると思う。)

自分の能力以下の事を強要されたら頭のいい人ほど適応できないらしい。
目茶苦茶優秀な警察犬を導入したのに、訓練する警察官がバカすぎて
きちんとした訓練をさせなかったゆえにその警察犬は発狂してしまった
と言う例を知っている。
 
とり方によっては「ディスっている」と捉えられるかもしれませんが、
公文の学習法って工場のラインで毎日同じ事を繰り返しても「疑問」を
一切いだかない人には向いていると思う。
(時間の関係、年齢等と言った「仕方なくライン」業務の人と言った人は別ですよ。
と、いちいち注釈を入れないと噛みついてくる人には私のブログは読んでほしくないと
思う。あくまでも精神的大人限定でお願いする。)
ライン業務に付きつつも「また同じか…」「たまには違うラインに行きたいよな」って
思う人も基本公文は向いてないと思う。
ラインに立ちつつも「自分だったらこうするのに」とかその先を読んでいる人は
もっと向かないと思う。
言われたことを言われた通りに何の疑問も持たず、不満を持たず
延々と繰り返されることに嫌気がささない人だけが公文に向いている
と思う。
ぶっちゃけ↑こういうタイプの人は元々大人になって公文なんか始めようとすら
思わないのかもしれない、と意識してディスってみた。


ま、結局ラインに立ちつつも自分なりの解釈で自分で会社を立ち上げたり、
経営者になるなど「踏み台」利用で大きくなる人は別として
ラインに立つしか能が無いのにそれを不満に思って辞めちゃて
箸にも棒にもかからずにひきこもっている私には公文の関係者は言われたく
無いだろうけど。


頭の柔らかいまだ知識が無く真っ白な状態の子供には
反復&定着でいいのかもしれないけど、
やっぱり大人にはちょっと無理があると思った次第。


そういうことで、この8月いっぱいで公文は堪能したので
終了することにいたします。
それに伴って「大人の英語」も9月いっぱいで辞める方向で検討中。
テロ多発で海外旅行なんて行く気にもならないのに、いまさら
英語しても仕方ないのでは?時間の無駄のような気がしてきたので。
目標が無ければやっぱりやる意味が見いだせなくて、やる気が無くなってしまった。
因みに男脳ならこういった「目標達成」を念頭に置きながら活動するのに対して、
女脳は「みんなと楽しく…」的な事に重きを置くのだそう。
昔自分が男脳:女脳の比率を調べたらきれいに50:50だったから
「目標無くしては進めない」とはよくあてはまっているな、と思う。


president 「実家の大大問題」号より抜粋

PRESIDENT (プレジデント) 2017年9/4号(実家の大々問題)
PRESIDENT (プレジデント) 2017年9/4号(実家の大々問題)
プレジデント社
2017-08-12

夫が読んでいるのを横からチラ見した記事にこんなことが書いてあった。


市場の三分の一が消滅、誰がアパレルを殺したのか?p104~105


ブランドの崩壊は世界的な現象だが、一番苦戦しているのは

高級ブランドと手ごろなファストファッションに挟まれた

セグメントだ。

いわゆる「スペシャリティストア」と呼ばれるブランドで

国産アパレルメーカーもこれを作って押し出してきたが、

今や軒並み業績を落としている。

ハイブランドほどの付加価値を与えられず、かといって

ファストファッションほどの値頃感も無いこのカテゴリーは

消費トレンドから完全にはじかれてしまったのだ。


なるほど~これが案外40代~「着るものが無い~」現象に
繋がるのでは?
因みに今時の子は着なくなった服をオークションサイトに売って、
新しい服もそこで購入…と「中古」に対して嫌悪感が全く無いようで。
風水で言うところの「前の持ち主の残留思念…」みたいな面倒なことは
全く考えずに「欲しいから買う、要らなくなったから売る」と
どこまでもドライな感覚だからこそ成り立っているようで。
リアル店舗が近辺に無くてもネットさえあれば気兼ねなく購入できる。
まあ、それも若いから体型がある程度一定だからであって、
おばちゃん世代になるとユニ黒のトップスですら試着しないと
「入らない…」とか「大きすぎる…」といった体形の差が影響するので
実店舗がもっと近辺にできないものか…とトコトン世代間の感覚の
「ズレ」みたいなものを感じるのであった…


因みに私自身が現在挑戦中の本が

堕落する高級ブランド
堕落する高級ブランド
講談社

発行が2009年なので今よりさらに時代のずれを感じなくもないですが。
「ブランド」に対する気持ち(何を求めているのか)が全く違いますよね。
中々ぶっとい本なので読破まで時間がかかるので、穴埋めブログが
多数乱発すると思います。笑


あなたを変えるココ・シャネルの言葉 高野てるみ著

あなたを変える ココ・シャネルの言葉
あなたを変える ココ・シャネルの言葉
イースト・プレス

読む順番を間違えました。
こちらが2012年発行で、昨日書いた方が2015年発行。
本書を「焼き直した」のが昨日の本。(同じ言葉が掲載されている)
昨日も書いたように「パッとしない金言が多い」印象。
もしかしたら今回の金言だってこの人=高野てるみの解釈&文章が
無ければもっと心に響いたのかも…毒


訳や解釈の違いで優劣がはっきりする、
ひいてはその作品そのものの評価までもが左右される一例。