疑惑 JAL123便墜落事故 このままでは520柱は瞑れない 角田四郎
1993年発行 書庫扱い (ちなみに私が借りた本は1994年2月発行の第20刷)
当時から相当読まれた本なのだと思う
今回も引用盛りだくさんになると思うので最初に結果を書いておくと ( ´艸`)
こちら↑と、今回の本は123便に関しては押さえておいた方が良い本、と言っておきます
「青山本」は問題提議の「起爆剤」としてはいいかもしれませんが、読む側にとっては正直
「感情論」で語られているように感じられて…もっと言えば「ヒステリー」気味にも感じられるので読むのが苦痛…( ̄▽ ̄;)
さて本書
「運命に導かれて…」と言いうクサいセリフがぴったりくるほどの「縁」としか言いようのない目に見えない力に導かれて真相に迫って行く
あの日、子供会のサマーキャンプの付き添いで現場近くに居た筆者
目の前をジャンボが通り過ぎ行くのを目にし、その飛ぶ姿が何か不安げだったのが印象に残った そして何気に飛行機に向かって手を振っていた…
そして事故のニュース
更に数日後、友人Kからの連絡でKの恋人がCAとして当該機に乗務していたのをきっかけに
「一緒に山に登って欲しい」と頼まれる
初めはただ一緒に登るだけの気持ちだった
けれどあの現場を見た途端、言いようのない感情が沸き起こり「これは絶対に追求しなければならない!」と520柱(気持ちとしては胎内から飛び出した胎児も入れて521柱)に誓う!
当時の雑誌、新聞を元に時系列に並べていくとまずは一般的に公開されている飛行経路図が
新聞によってさまざまである、という事を突き止める なぜ?こんなに違う?!
更には「あるはずの会話」が完全に欠落している公開されているボイスレコーダーの嘘!
そう、本書を読んでいると一般にこれが定番(?)とされている説が実は「嘘」なのではないかと思うほど「改ざん」されて知らされているようにしか思えない!
ああここでも「国民には真実を知らせない」作戦が適用されている模様
しかも1985年の事ですから今の様にネット情報もない
国民はテレビ、新聞と言った現在ではオールドメディアと言われているものしか情報源が無い 例の墜落場所がわからない件も「NHK」の報道に右往左往させられたことになる!
あの誤報による事故現場の特定が「操作」されたものだと本書でははっきりする
さて、以下なが~い引用になって行きます お時間のある方はお付き合いくださいませ
時間の無い方はここまで \(^o^)/

p22 事故発生交信記録
18:25ごろ 24000フィートに降下したい 羽田に引き返したい
ほぼ同時刻 スコーク77 発信
18:31分ごろ 東京管制部が名古屋への着陸が可能かどうか尋ねるが羽田に帰りたいと答える
18:54ごろ 「操縦不能」の通報 「自機の位置がわからない」の問いに管制部は、羽田の西北83キロ、熊谷の西46キロと伝える
18:55分ごろ 管制部より、羽田、横田共に緊急着陸の準備完了、いつでもアプローチを開始してもよろしい、と伝えたが応答なし
18:56分ごろ 羽田、所沢両レーダーから機影消える
そして墜落現場の特定に時間がかかった「足止め」の理由として使われる「アイソトープ」
はp37
8月13日
1:30ごろ 日航機の荷物の中に医療用アイソトープがある為、現場到着隊は連絡があるまで現場に入るな、と命令が下っていた
4:50 科学技術庁発表「アイソトープは人体に支障なし」
しかしこの発表が現地に通報されるのには時間を要し、すでに山中に入った各隊にはさらに数時間を要するのである
9:25 長野県レスキュー隊の二名 ヘリ「やまびこ」より現場下に降下
9:30 現場上手の屋根上に長野側から入山した自衛隊松本連隊の14名が到着
しかし、アイソトープ情報の為、現場を見ながら約2時間待機
10:15 群馬県警機動隊が上野猟友会の案内で現場着。
7時過ぎに入山しているので約3時間で着いたことになる
10:54 上野消防団と長野県警レスキュー隊合流 「生存者発見」
13:29 生存者4名の自衛隊ヘリへのつり上げ収容が始まる
p44
8月14日各紙朝刊に「アイソトープ」発見
ボイスレコーダー、フライトレコーダー発見回収 記事掲載
p59には各紙が載せた航路図が載っているが
一四日になって私はテレビの画面に映し出されたレーダーによる航路図を見て驚いた。今まで流されていて航路図とはおよそ別物ではないか。こんな明確な事実(レーダーで追い続けたということ)がありながら、なぜ、テレビ局や新聞社によって飛んでいた場所が異なるのか。発表は一カ所、つまりニュースソースは一つのはずである。(中略)
ただ、前には書かなったが、私はこの時さらに二機の航空機を目撃している。不思議なことに、この二機に関する記述はその発表航空機リストには見当たらない。(中略)
そうなると当初発表の航跡とは一体何だったのだろう。混乱の中で生じたミスと言うにはあまりにもデタラメなものである。
不可解な疑問点p62
各管制所との交信の中に事故機が事故の状態や操縦不能の具体的報告について自社への通報のみである点がいかにも不可解である。油圧系統が全部使えなくなっていることがわかるがこの事すら交信記録には一切見当たらない。
「R5ドア」の異常を日航との交信のみ異常を伝えたのも不可解であり、その後は何も交信しなかったというのも不思議に思えた。
続いての疑問は「スコーク77」という緊急信号を発してから32分も迷走している事故機を米軍機も自衛隊機も補足及び誘導しなかった点である。
p64では日航発表と運輸省が交信記録を発表した交信記録に「時間差」があることを指摘している
p70
14日、現場からのテレビ中継を見ていた私を日航がまた驚かさせたのである。墜落現場に日航の白いつなぎ服がうようようごめいている。あとの新聞で見ると遺体捜索中の自衛隊員や機動隊員とは全く異なる行動である。機体の写真を撮ったり、のぞき込んだり。つまり機体の調査を目的に入山しているのである。(中略)日航は警察が現場検証する前に現場で何かしているなんて…
(中略)
「四人の生存者はいずれもまだ体力の消耗が激しく、県警や事故調の面会も病院側がストップをかけている」と報じているのを聞いていたのである。
ところがこの日航の強引な面接の結果、世に出たのがいわゆる「落合証言」!!
(8月15日の朝刊に日航が発表)
p71
後に私が取材した日航のパイロットの一人は「あれは全くの捏造です。日航の誰がやったかも判っています。私は記事が出た後で直接落合さんにも聞いてみましたが『私はあんなことを言った覚えはないです』と言っています」と話してくれた。
後に落合さんは1986年1月統「新潮45」にて手記を発表 上記の「証言」と比較することになる
当日の墜落目撃情報よりp94~ ここで注目する点が書かれていたが一旦置いておいて
「おや?」という点 p99
「ついさっき、でっけえ飛行機が低空で飛んでいくのを見た。うちの裏山の向こうがに落っこっていっただ。日の丸ついとったから日本の飛行機に違いねえ」
「午後6時15分から20分の間に、ツルのマークが入った飛行機が…」
と、日航機に「日の丸」はついていなので後ろを飛んでいた自衛隊機を誤認したり、「鶴のマーク」もその場所では既に海に落ちているので見るわけがないのである
そんな誤認情報が「いかにも」と言った風に記者に話すので事実が見えなくなっていた
p211にボイスレコーダー筆記録が載っているがこれも3回報告されていても全部内容が違っているのである 1には載っていても2にはない、そして3でまた復活と言った感じ
そして最終「事故調」にとって有益な部分だけが残る…
そして他の著者も指摘して様に「スコーク77」という国際緊急無線信号をなぜ唐突に発したのか?という疑問
あまりにも「不自然」な行動でしかない(多分、これも事故調にとって都合のいい改変があったと思われ=隔壁説にとっては有利)
ボイスレコーダーから「シートベルトの着用」について疑問を持つp248(250)
つまりベルトサインのオンオフは誰が決定しどこで操作されるかを考えて欲しい。
コックピット、操縦室である。一旦解除したベルト使用を、24分12秒には再び命じている。
(中略)
それが一旦解除された後で、すぐまた点灯されたというのは明らかに緊急の何かが起きたのである。何かが発生したのか、発生の可能性を予知したか、である。
そして皮肉なことに「常ならぬ事態」が事故調の報告書で見つかるp251
事故機のCVR記録は18時24分12秒の『たいとおっしゃる方がいらっしゃるんですが、よろしいでしょうか。』という客室乗務員による操縦室への機内通話から始まっている。
この女性の音声から計測した精神緊張度は9段階の3であり、何らかの異常を感知していたという可能性は少ないと考えられる。
この申し出に対応した航空機関士と副操縦士の音声からは、精神緊張度9段階の5~7という通常の飛行状況下ではやや異常とも思える精神的な高まりを示す値が推測された。
この時点で同運航乗務員は精神緊張度が高まる様な何らかの異常の傾向を感知していたとも考えられる」
ところで「事故調」と聞けばエキスパートの集まりと思いがちだが実際には車で例えるとペーパードライバーのようなものらしい
運転するための最低限の知識は持っているが実際には運転してこそ身に付く知識と言ったものが皆無な「理論だけの人」のようなものらしいp270
さて、事故調査委員会は何故「隔壁説」をでっち上げなければならなかったのであろう。
私は調査官個人にその理由があったとは思えない。むしろその矛盾に気づき心傷めながらも彼らに及んだ大きな力に抗しきれなかった姿を感じてならない。
最終報告書を記者団の前で読み上げる武田峻委員長の震える手、引きつった声、そして落ち着きを失った目と疲れ切った表情をテレビで見た。
ここ↑で引用した「はじめに」にあったように「自分の身がかわいい」と言ったところか、
今なら皆が知っている「ハニトラ」でもあったのでしょうか?
まあ「家族に危険が及ぶ」「金銭の援助」と言ったものをちらつかされたらみんな屈するのはよくある事
p274
米国調査団の誰一人として作業服や登山靴を用意していない。
とありますが、これは
にては「最初はテロだと思っていた=気楽に考えていた」とインタビューで答えていた
むしろボーイングは「修理ミス」という大チョンボを除いて「墜落」とは無関係の様にすら思える
そしていよいよ「誤情報錯綜」についての言及p277~
本当の事故現場から人の目をそらすことを意図したとしか考えられないミスリードで現場特定は混乱した。
(中略)
「プレイボーイ誌」には米軍関係者の話として、
「我々は基地(横田)のレーダーから日航機の機影が消え、(中略)直ちに基地内に居る3人の医官、3人の医療関係者、を用意しいつでも飛べる状態にあるヘリの脇で待機させた。
(中略)
我々は3日間待ったが、日本側からの出動要請はついになかった」
(中略)
「19時45分、横田基地救難調整センターは、自衛隊入間基地に対し『レスキュー隊が待機中、要請あれば出動すると報告した』
(中略)
「我々なら降下困難なら、そこから一番近い降下場所を見つけて降下させ、後は上空から彼らを現場に誘導するでしょう。基地に戻ったりしたら笑いものになります…」と語ってくれた。
まるでお手本のような「人助け」の精神であるが
この本↓に書かれているような
「米国には絶対に言えない いけない実験」をしていた立場であれば絶対にこちらからは声をかけれないのも当然と言える
p287
NHKもこうしたミスリードを意図した気配のリーク情報ばかりを追い、早々に入手していた「群馬側」情報を葬り続けたのである。
現在しっかり「どこの国のメディア?」と言われているけれど当時はまだ日本のメディアだったのかな? 笑
p288
墜落現場第一到着は誰か
これ。確か
こちら↑でも言及していたというか当時すれ違った大学教授との一行
3人だったはずが最後は4人に…と謎めいていましたが本書で正体?がわかりました
さて人影隊の正体は何と全くの素人救援隊の4人であった。長野県南牧村へ夏季ゼミに来ていた立命館大学教授、深井純一先生とゼミ生2人に、宿の中学生1人の一般人である。
p292
9時54分に73名も降下した空挺部隊が、この時点で一人もこの谷底に捜索に来て居ないのは、一体どう解釈すればよいのだろうか。
p293
航空自衛隊による再三の現場位置特定が、防衛庁によって大きく歪められ、陸上自衛隊はその情報で右往左往させられた挙句に、アイソトープを理由に活動を停止させられていた。
(中略)
後に冷静に分析してみると、それが防衛庁と言う一カ所から発せられる誤報の連続であったことを、単に「誤報」と受け取れるほど、もはや私は正直者ではいられなくなっていた。
深井教授は手記を発表した その中にp293
「南側の急斜面の上では自衛隊のヘリコプターが何かを釣り上げているのが下からも見え隠れしていた」と記す。(中略)
こんな時間に陸上自衛隊第一空挺団は一体なにを現場から釣り上げていたのであろう。
(中略)
生存者よりも先に搬出された遺体は一体もない。
(中略)
まして、機体破片を収容することになど警察の検証も始まらぬ前にはありえないのである。
(中略)
長野県レスキュー隊は10時40分に現場に入った時「尾根上では、自衛隊員がヘリから降下中であった」と語っている。8時49分から65分で降下が完了したと公表されているのも、嘘ということか。10時40分にまだ降下が目撃されているのは、8時45分から始まったのが73名の空挺団の降下ではなく、少数の隊員の降下と「何か」の吊り下げ作業であり、本隊の降下は10時40分にまでずれているのではないか。
そしていよいよです
長々と引用をしてきたので誰も読んじゃいないと思いますが ( ´艸`)
他の書籍にはなかった記述があります 大スクープですよ 本来なら!!
p109に友人と現場に行った時の描写があります。(8月18日)
まずは警察官に止められ免許証の提示を求められひと悶着あります そこは何とか切り抜けたもののp135に
岩陰のくぼみに赤や青っぽいリュックザックが5つ、きちんと一列に置いてある。
「誰かが置いて行ったんだな」と言いながら、一番手前のリュックを持ってみた。ごく軽かった。「衣類だ。着替えたんだ」ここまで軽装で来て、ここから登山着に着替えるなんて、手慣れた連中だと思った。
p299
その群馬県警の人に頼み了解をもらった上での持っていた破片を、なぜ自衛隊幹部によって放棄を命ぜられなければならないのであろうか。そこは戦場でもなければ自衛隊演習場でもない。群馬県内国有林の司法権は群馬県警にあって自衛隊にはない。
しかし、この山は別であった。この山の支配者は自衛隊であり、全てが自衛隊によって動かされ、牛耳られていたのである。(中略)
一週間にならんとするのに立ち入り禁止域を自衛隊が勝手に作り、勝手に隊員を配備している。しかも、同じ自衛隊の他の部隊ですら入山させていないのである。
友人が高山病で休息させてもらったテントでの事 p300
「変なんだよチョット。あのテントは神奈川県警機動隊って書いてあったよね。隊員も機動隊の制服だったし。だけど、ナイフのケースや水筒の紐なんかには○○師団とか書いてあるし、靴は軍靴だったんだよ」
(中略)
驚いて調べてみたが、警察庁・群馬県警が協力を要請した中に、神奈川県警はない。
(中略)
一体何のために、自衛隊員に機動隊員の制服を着せるのか。着替えを借りるなどあり得ない。機動隊員の服装で多くの報道陣の目の前でなければやれない作業を自衛隊員にさせる必要が、そこにあったのであろう。
これなんじゃないのかな?
機長さんの遺体を「司法解剖に回す」とか警察官が言った↑、という事になっていますが
証言者の看護師にしても「見た目の制服で判断」しているだけで「中身が別所属かどうか」なんて判断できないじゃないですか
だから警察の責任者↓は一切本には言及がなかったのではないでしょうか?
p304
一方、群馬県側はどうだったのか。これが長野県側が取った処置と全く逆に、12日未明からすでに「もし群馬県側である場合」としながら着々と準備を進めたことがはっきり残っているのだ。
墜落現場が判明したのは13日午前5時過ぎである。
「本部長ら一行が(日航機行方不明の一報あって)サイレンを鳴らして県警本部(前橋市)に戻り着いたのが、午後9時前。
急を聞いて駆け付けた幹部を前に本部長は『長野に落ちたと言われているが、本県に落ちたと思って行動してくれ』と指示。と同時に刑事部長が一足先に上野村に飛び、十時過ぎには現地本部を作りました」
当然誰もが長野県御座山にしか目を向けていない時刻であることを考えれば、この言葉の持つ意味が解ってもらえるだろう。」
(中略)
「12日の夜、群馬県藤岡市内のある葬儀屋に、地元の警察から電話が入った。『突然のことだけど、棺はどれぐらい用意できますか』(中略)
ところが、翌朝墜落現場がわかったのに、警察から何の連絡もなかった」
本部長訓示は藤岡署にまで伝えられ、細かく棺桶の見積もりまでさせている徹底ぶりである。
(中略)
「東京周辺の葬儀屋から800近くを用意し、藤岡市へピストン輸送した。(中略)
現地で注文しなかったのは、統一の規格の物が用意できなかったためだと思います(日航関係者)」
(中略)
私は秋になってこの協和木工について、人に調査を依頼していた。
その矢先、社屋は火事でまる焼けとなった。もうあの時の納品伝票は灰となったのである。
闇を感じるよね~~ ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
そして「縁」が決定打になったのは日航乗員組合にコンタクトを取り自説を聞いてもらうことにしたら、何とその3人のうちの一人が藤田氏であった
この時はまだ藤田氏も現役パイロットであり、4人は意気投合! ( ´艸`)
皆「隔壁説」には懐疑的だった
p389
私はすでに大月付近のキャンプ場で事故機目撃の2~3分後に、自衛隊機2機を目撃したと書き記した。2機を見たのは45分頃になる。
(中略)
私はこの自衛隊機が日航機を捕捉していたに違いないと考えている。
飛行中の32分頃からであろう。それ故に自衛隊機との交信に追われ、他の交信には応答する間がなかったと見るのである。当然、会話も同様であろう。
しかし、ボイスレコーダー筆記録には、自衛隊機との交信は一切見られない。
自衛隊機は同空域での存在すら認められていないのであるから無理もない。
実際、日航乗員組合でパイロットに話を聞いた折り、私は次の質問をしてみた。
「その時、近くで誘導してくれる機があっても、交信は続けますか?」との問いに、
「いいえ、誘導してもらえるというのは、そうした面倒を全部任せるという事です。操縦に専念できるという事です」
私はこれが「無交信」の理由だと、推定した。
p391
日航機が、横田からわずか10㎞以内まで接近したのは確かである。
何故、航跡図をゆがめてまで、横田基地への接近を伏せなければならないのか。
あるいはほかに伏せるべき「何か」が航跡上にあるのだろうか。
(中略)
日航機操縦席からも、広い横田基地の滑走路は、はっきり見えていたはずである。
横目で通り越して北側へ回り込むことを、日航123便のクルーは考えたはずである。
(中略)
「山にぶつかるぞ」「レフトターン」機長の判断で回避操作に入った。
あるいは、これも自衛隊機の誘導であったかもしれない。
p392
自衛隊機誘導に任せた為か、日航機は自機のポジションを失った。
ACCに尋ねると熊谷の25マイル西と言う。
(中略)
依然右旋回しながら一気に降下というより落下。
墜落現場となった群馬県側の呼称高天原山の一支尾根へと墜ちて行ったのである。
墜落直前P408
「飛行機が飛んで行った後から、流れ星のようなものが近くに飛んでいくのが見えた」
「飛行機が赤い炎を上げ、やがて黒い煙を残して南相木村の群馬県境に消えた」
「扇平山と神立山の交差する稜線の向こう側に消えた。その直後、ピカッと閃光が上り、続いて炎が燃え上がるのを見た」
「誰かが、光るものが飛んでくる、と叫んだ。山の向こう側に真っ赤なキノコ雲が立ち上がった。それは数秒で消えて、二つ目のキノコ雲が現れた」
「突然、雲の隙間から太陽が射すようなオレンジ色の閃光を見た」
「火の玉が飛んでいくのを見た」
という墜落直前の目撃証言をよく見ていただきたい。
墜落前にも関わらず、これらの証言では既に日航機が火を吹いているかの様である。
さて再び筆者が友人と現場を訪れた時に戻る
p137
まもなく沢の分岐に出た。これはどっちの道だろうともいながら近づくと、沢の大きな石の上にたった一人の自衛隊員が座っていた。
「あの~すみません…」と言いかけたところで彼は黙って右の沢をさっと示した。
礼を言ったが彼は一言も返さなかった。
(中略)
下山して行った機動隊一隊、自衛隊二隊、テレビクルー一隊、記者の三人組、みんな声をかけてくれた。(中略)
ただ、一隊、我々の声に全くそっぽを向いて無言で過ぎ去った人たちがいた。
あまりの陰湿さに、思い出したくも書きたくもない思いが今もよみがえる。
その一行は白いつなぎ服の背中に「JAL]のマークの入った4,5人である。
(中略)
私たちに口もきかなかったのは、この一団と分岐に居た自衛隊員だけである。
p149
時計に目をやると、もう5時を過ぎていた。(中略)
砂防ダムの手前の大岩のところに来た。もう岩陰のリュックザックはそこになかった。
しかし薄暗くなり始めた森の中の岩陰に重く光るものがある。
あのリュックの後に残されていたのは一枚のアルミ合金の板である。
墜落現場では自衛隊員にとがめられて機体の破片を放棄してきたがこんなところで手に入るとは。喜んでそれをリュックザックの中に収めたのである。
この後、友人が足を滑らせて谷に落ちかけて時間をロスしたので7時20分に車のところに戻ると「スモールライトがついている」「車輪止めの石が動かされている」「ドアロックはかかっているが、ギアが外れている」など「誰かが車に侵入したのは紛れもない事実」という気持ち悪いことが起こっていた
p411
その金属片を米軍の友人に何の説明もせず見せた。彼の答えは、私の度肝を抜いた。
「多分」と疑問詞を付けて慎重に、しかしはっきりとこう言った。
「ミサイル」
「まさか!」と声を高くした私に彼はもう一度頷きながら言った。
「多分、ミサイル」
思えば私にとってこの事故に接してから、この言葉は初めて耳にする言葉ではなかった。
実は三度目である。
最初は山に行く日(18日早朝)車の中で聞いた友人の羽田での体験談である。
日航役員が乗客家族に詰め寄られて吐き捨てた言葉「うちのジャンボは、北朝鮮のミサイルに撃ち落とされた。今はそれしかわからない」であった。
二度目は知人のテレビ局スタッフからであった。
「テレビ各局や新聞社に自衛隊員と言う触れ込みで、怪文書が届いた。その内容は相模湾上に居た戦艦『たかちほ』より発射された対空ミサイルが日航機に当たってしまった」というものであった。
そして米軍人の口から三度目の「ミサイル」を聞かされたのである。
やや不気味になった私は、その金属片を手元に置かないことにした。
p412にはその金属片の写真が載っている
事故でなくなった白井さんは遺書の中でこう訴えている。
「恐い・恐い・恐い。助けて。死にたくない。気持ち悪い」
ミサイル説を考える時、期せずして白井さんと同じ言葉が胸中を埋め尽くす。
p416
その後、自衛隊機2機の誘導を受けながら米軍横田基地への着陸指示に従い、八王子インターチェンジ方面からの南アプローチへ向かっていた。
しかしなぜか横田緊急着陸の方針は変更され、左旋回を命ぜられる。
日航機はぐんぐん高度を下げ横田基地へわずか10キロ足らずの地点にあった。
横田基地は他の米軍機の離着陸を中断し、消火、救難隊をスタンバイさせて緊急態勢をすでに整えていた。(中略)
機は一転して北西へ進みさらに高度を下げ、山へ衝突しそうになって必死で回避しスピードを上げて横田から遠ざかった。
この辺りから自衛隊機の誘導が減り、ACCとの交信に再び応じ始めた。
(中略)
機首を北に向け、川上村から南相木村に入った頃、なぜか右エンジンが火を吹き大きく右に傾いた。機首を北東から東に向けて弧を描いて落下、さらに南そして西に機首を向けたときに「一本カラ松」に右主翼のエンジンが接触、続けてU字溝を作った峰に激しく接触して機体を二分しながら最終激突地点へ突っ込んだ、のが私の仮説である。
横田まで誘導しておきながら突如として誘導を放棄した自衛隊機2機って一体何だったんでしょうね?
そこまで一緒に飛んでおきながら「墜落地点がわからない」という寝言をほざくという…
そのくせ機を飛ばしたのはレーダーに映らなくなった以降とか言うのはありえない
ず~~~~~~~~~~~~~~~~~~と米軍に監視されているというのに
┐(´∀`)┌ヤレヤレ
とまあ私的には横田には(こっそりとやっているつもりの)「実験がばれる」のが怖くて絶対に行ってほしくないし、人の多いところに落ちたら二次災害が怖いしでやはりミサイルで墜とした、に一票!

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