Noblesse Oblige  ~ノブレス・オブリージュ~

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

ときぐすり 畠中恵

ときぐすり (文春文庫)
ときぐすり (文春文庫)
文藝春秋
2015-07-10

お寿ずさんが身罷って一年経っても麻之助の「お寿ずロス」は相変わらず…
周囲の人に気遣ってとりあえずは名前を口にはしなくなったものの、
心の傷はまだ癒えず。
一篇目の『朝を覚えず』はそれを示すかのように確かにそれは「お仕事」
の為に悪事を働いたやつにわからせるためとはいえ怪しげな「眠り薬」を
己も服用。
そう、形は違えども彼がやったことは「睡眠薬自殺」…
そこまで思い悩んでいたのか…とこちらにある種のショックを与えた。
更にこの話ではお寿ずの遠縁にあたる「おこ乃」が高橋家に出入りしている。
そして彼女のを見る度に麻之助が「お寿ず…」と固まることになる。
全く姿かたちが違う「他人のそら似」ならまだしもなまじそっくりと言っていいほど
似ている「別人」が側に居てその度に「違う…」と言う事実を突き付けられる方が
傷は深いと思う。
例えば、夫に双子の兄弟がいたとしてその度に
「これほど似ているのにやっぱり違う。言ってほしい言葉をくれず、行動が違う…」
と言うことを感じるのは決して覚めない夢であり、
しかも夢は夢でも「悪夢」なんじゃないだろうか?
決して終わらない夢。決して自分が望む方向にならない夢。
むしろ「早く終わって欲しい、覚めてほしい!!!」と切に願ってもおかしくない。
まあ、実際の私の夫は言うほど気が利く方でもないし、言ってほしいことをさらっと
言ってくれるような素敵な男性でもない。笑
けど、私の母親のように言ってはいけないタイミングでぽろっと言って
場を固まらせるような愚を犯さないだけマシ!と思う。
この「マシ」があるから長年一緒に居ても我慢できる点なのかもしれない。


今回、麻之助の友人についても書かれていて彼らのファンは楽しめるのでは?
個人的にはがめつい性悪に捉えられがちな高利貸しの「丸三さん」が活躍(?)
する『ともすぎ』が好印象。
そしてラストの『ときぐすり』は漢字では「時薬」と書いて「じやく」と
読むのが正解なのだが「ときぐすり」と読むことによって人の心が時間と
共に癒されていけばいいなあ…と言う期待も込めて。
日々お仕事に忙殺されてお寿ずさんの事を少しでもいい方に忘れて行けたら
良いのにね…とエールを送りたくなる作品でした。



因みに「じやく=時薬」の意味は

「お坊さんに許されて食べるもんの内、確か、

午前中に食っていいもん、だったかな」

ここで滝助は、時薬の意味が考えていたものと全く違っていたと言い出した。

「おらあ、時は薬になるんだって思っちまった。

で、すごく嬉しかったんです」

歳月を過ごしていくと、そのことが心を癒してくれる。

時そのものが、一種の薬となる。

滝助は「時薬」とは、そういう意味の言葉だと、寸の間信じたのだ。

(中略)

時は誰の上も、滝助の上にさえ等しく過ぎて行く。

それが薬になってくれるとしたら、そんなに嬉しい事は無かった。