Noblesse Oblige  ~ノブレス・オブリージュ~

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい テサロニケ人への第一の手紙5章16節~18節

「母親に、死んで欲しい」介護殺人・当事者たちの告白

「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白
「母親に、死んで欲しい」: 介護殺人・当事者たちの告白
新潮社

p30

「母は日本語ではない何か…ワーワーワーって言うのを言われて…

何を言っているのか全く分かりませんでした。意思の疎通ができない時間が一日の内の大半だったので、それが一番つらかったです」

目の前の母親と、自分の中の記憶の中の母親との大きな隔たり。

その状況を弟はこう表現した。

「私は母の事を、母の皮を被った化け物だと思っていました」


p167

「僕の介護は母親がしでかした不始末の後始末です。母親がトイレを流さず貯めてしまうから、詰まってしまうんです。修理を頼んだら20万円と言われました」

父親は既に死亡。その父親も認知症で男性は両親ともに一人で介護してきた。

姉がいるが、結婚して家を出てしまい、介護には一切携わらないという。

「結局、逃げたもの勝ちなんですよね」



介護の果てについに殺人に至ってしまった人々を取材した一冊。
元々「良き母・良き父・良き妻・良き夫」という「善良で愛と信頼に溢れた」
関係であっても認知症を発症した途端に「別人」となり「暴言暴力」に悩まされる。
ではわが家の様にその前提すらなく「憎悪と嫌悪感」しかない場合どうすれば?
本書の中にはヘルパー歴20年の女性であっても仕事と身内とは別なようで
事件に至っている。
中には「介護の果てに…」という「情状酌量」すら認められずに実刑のみの人も居る。
行政や他の人に助けを求めなかったのか?と思われがちだが所詮行政も聞き取りは
しても親身になることは無い。職員がすべきことはそれではなく「ご家族でお願いします」としか返ってこない。
最後は住み慣れた家で…という一見耳障りの良い言葉は「姥捨て山」という名の
入院・入所をシャットアウトしたがためにこういった悲惨な介護殺人の温床となって
いる。
読んでいて「明日は我が身」とひしひしと感じた。
出産はあと何か月…と心構えができるのに介護はいきなり・突然である。
しかも「終わりが見えない」という絶望感しかない。
これからも新聞の片隅に「介護殺人」の記事がひっそりと載るだろう。
それを見て「お疲れさまでした。大変だったでしょう。よく頑張りましたね」と
言葉をかけると思う。