メンタルの強化書 佐藤優
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なぜこの内容でこのタイトル?
昨日アップした本が「さあ、青信号だ!アクセルを床まで踏み込め!」だとしたら
本書は教習車で教官が常にブレーキを踏んでる感じ。
これなら自慢話を聞いている方がまだマシ!
第2章に至っては『「前のめり」な生き方を辞める』ですから
常に前のめりな私とは相性が悪い
そもそも文頭辺りで既に「合わない」と感じた部分
p21~から適時抜粋
2019年5月川崎市で10年以上引きこもっていた50代の男が、
スクールバスを待つ児童とその親を次々に刺すという痛ましい事件が
起きました。(中略)
川崎市の事件でもネットの書き込みやワイドショーなどでしきりに
「死ぬなら勝手に1人で死ぬべきだ」という声が上がりました。
周囲も賛同している光景を見て、私は何とも言えない気持ちになりました。
確かに無差別事件は許しがたい。しかし「一人で死ね」というのは、
明らかに論理に飛躍があります。どんな相手であれ「勝手に1人で死ね」というのは暴言でしょう。その突き放した言い方には、相手に対する想像力を一切拒絶した冷酷さを感じます。
「自殺を考えるような弱者はどうぞ一人理で死んでください。ただし、私たちを巻き込むな」という事です。
そこには弱い人間や、負けた人間、社会の役に立たない人間はどうなっても構わない、関り合いたくないという勝者の論理があります。
無差別殺人の犯人の冷酷さは言わずもがなですが、「勝手に1人で死ぬべきだ」という冷酷さも、私たちは認識しなければならないと思います。
そんな冷酷な意見が拍手喝采で受け入れられる今の社会こそ、私は病理を抱えている居ると思うのですが、皆さんはどう考えますか?
私は冷酷で勝者の論理を振り回す人間なのであえて言います。
「無差別殺人をするぐらいなら勝手に1人で死ね!」
今回の大阪の放火殺人の犯人もヤマユリ園の犯人も同類。
最近起こっている電車を犯行現場にしている被害者が
ただただ居合わせた気の毒な無差別犯罪とは違い、
今回の事件は「この場でここに居る人達はどんな人たちなのか」が
分かった上での犯行。いわば「顔見知り」に向けた犯行。
傷ついた人たちが必死に自分を立て直そうと努力しているのを踏みにじり、
残された家族や知人の心を傷つけるようなそんな人間に慈悲を持つ必要はどこにある?
どっちの方が『論理に飛躍』があるんだか
佐藤さんは東大卒ではなく、
同志社の神学部卒だからこんな「全ての人を救済」する思考なんだろうな
そのうち「死刑論」にまで行きつきそうなのでここらへんで止めときます
と思ったけど。
人は一人で生まれて一人で死んでいく
これが世の理なのでは?
自分の死期が迫った時に配偶者に「一緒に死んで」と強要するのは
冷酷でも身勝手でも無いと言うのですか?
無理心中は認められるのですか?
こちらを選ぶ方が冷酷では無いというのですか?
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